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| 秋のころかしまし人の慌し 浜田庄司の茶碗を撫でつ (10月07日)(日) 夜遅くまでテレビで昔の映画を観ていると、寝不足になる。 昨日は『モロッコ』を観た。9時 案件があって佐藤さんが来た。 10時 トーヨーへ行く。 10時45分 第30回江戸川区民まつり会場へ行く。 小生は第一回から実行委員である。昭和天皇の病気のほか、2回大雨で中止になっているから、33年このお祭りを江戸川区はやっていることになる。 晴れ 20ー27度C 私が関係しているグループが20箇所近くテントを張っているから、顔見世をした。 14時 会場を去る。 14時30分 案件があって野田氏、境氏と要談(区内) 車を置きに自宅へ帰る。 17時30分 友好都市鶴岡市からおいでになった方との交流会に出席する(区内篠崎コミ館) ●ある縁で、陶芸家 漆芸家 書家 画家 篆刻家 美の達人 食通 北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年3月23日 - 1959年12月21日)・本名は房次郎(ふさじろう)の大鉢や小鉢、徳利が小生の手元にやって来た。 魯山人の簡単な経歴を記すと・・・・。 京都は上賀茂の上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。 6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となる。10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業し、京都烏丸二条の千坂和薬屋(現:千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出る。25歳の時、中国北部を旅して書や篆刻を習う。 1921年に長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。 ここで魯山人は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。 そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる紫田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。 その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。 1922年、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。 その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。 そして1929年に会員制食堂「美食倶楽部」を発足、自ら厨房に立ち料理を振舞うなどしながらそこで使用する食器や料理を自ら創作していた。 戦後は「美食倶楽部」の拠点・料亭「星ヶ岡茶寮」が人手に渡るなど不遇な生活を過ごすが、1954年にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される。 翌1955年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも、これを辞退。 1959年に肝吸虫、つまりいわゆる肝臓ジストマとも呼ばれた寄生虫による肝硬変のため死去した。 ●毎日新聞の岩見氏の原稿から借用する・・・ 福田新体制の人事で、サプライズに近いのは唯一、伊吹の抜てきだった。<大穴>とも報じられた。 だれ一人予測できなかった点では、小泉純一郎元首相による安倍の幹事長起用(03年9月)に似た驚きである。 なぜ伊吹か。京大経済学部卒、大蔵省づとめ22年、政策通の論客ではあるが、ひょうひょうとして地味だ。 近づく衆院選の陣頭に立つ闘士タイプではない。 3日、衆院本会議の代表質問で、伊吹は自民党のトップを切り壇上に立った。 だが、論敵、民主党の小沢一郎代表は伊吹の登壇直前に中座。 カチンときたのだろう、演説中に、「今、小沢氏は議席におられませんが……」 と2度繰り返した。小沢の態度は例によって非礼だ。 18年前、伊吹より22歳も若い47歳で小沢は自民党幹事長に就いている。 大先輩として、軽くみた、ということかもしれないが。ところで、小沢をもっとも寵愛(ちょうあい)し重用した金丸信元副総理をめぐる隠れたエピソードを紹介しよう。 山梨県南アルプス市の邸宅は、長男の金丸康信(テレビ山梨社長)、一子(いちこ)(竹下登元首相の長女)夫妻が守っているが、金丸の晩年は見舞いに、11年前死去してからも毎年、お参りに訪れる政治家が一人だけいる。 小沢ではなく、伊吹だ。一子は、「晩年の何年かは、『渡辺(美智雄)先生が生みの親なら、金丸先生は育ての親だ』と言って、伊吹先生が年に2回、おとうさん(金丸)のところにいらしていたんです。 亡くなってからも、いまだにお参りにいらっしゃるんです。お盆と暮れの2回、あの方だけ。『お忙しいときにいいです』といつも言うんですけど、『いえ、いえ』と。 私と30〜40分おしゃべりしてお帰りになります。そういうことを世間におっしゃる方でもありませんが、感謝しています」と言う。 伊吹の政界入り(京都1区)は渡辺蔵相の秘書官をつとめ、渡辺に誘われたからだが、金丸とは92年、宮沢政権の発足で副総裁に就任したとき、当選3回の伊吹が担当副幹事長に起用されたのが縁だ。副総裁と政府・党の連絡役である。 それにしても、長年の金丸邸通いは律義なことである。<陰徳あれば陽報あり>という中国の故事が思い浮かんだりする。 そんな伊吹の知られざる一面を、福田康夫首相は知っていたのかもしれない。 <手形>という言葉を伊吹は好んで使う。さきの国会レポートでも、 <政権を担当する限り、財源の裏付けのない、耳障りの良い空手形は振り出せません> と書いた。3日の日本経団連と自民党執行部の懇談会では、 「民主党のマニフェストは、落ちるかどうかわからない約束手形みたいな政策だ」とぶった。 腕力を危ぶむ声もある。ここは、落ちる手形を大胆に切ってほしい。、 伊吹の一句 客まばら二百十日の赤ぢょうちん |
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