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| 愚かなり大臣辞任つぎつぎと 時代の流れに政治家遅れる (09月04日)(火) 軽井沢でも珍しい快晴の日が一昨日から続いている。5時 起床 近所の山道を散策。 15−24度C 晴れ。 9時 上坂氏と奈良氏が自宅へ来訪したので一緒に新聞を買いに行く。 西区千が滝の喫茶店を無理に頼んで空けて貰って懇談 軽い朝食をとる。 11時 ひとりで中軽井沢の町へ行く 14時 レンタカーをトヨタレンタカーへ返す 軽井沢駅まで送ってもらう。 駅南側ののアウトレットの 店を散策する。 軽井沢駅のホームにいたら円蔵さんから携帯があって、明日のボランティアのスケジュールのことで質問があり、私はまったく細かいことは良く分からないので、盟友の石川氏に携帯で繋げたら、すべて了解したそうで、改めて携帯電話というものの利点が良く分かり理解した。 16時22分のあさまで帰京した。 上野駅の改札口を出たら物凄い猛暑で閉口した。 夜は 留守中の手紙 書類 週刊誌 雑誌などの整理をした。 ●出羽国米沢藩の第9代藩主、上杉鷹山(ようざん)といえば、江戸時代を代表する名君として知られる。とりわけ破産状態の藩を立て直した手腕は、財政危機にあえぐ全国の自治体の首長から高く評価されているようだ。 読売新聞が今年2月に行ったアンケート調査によれば、理想のリーダーとして、断トツの1位だった。 日向国高鍋藩主の二男に生まれた鷹山は、上杉家の養子となった。 当時の米沢藩は、幕府に領地返納を願い出る寸前の惨状だった。 農村の疲弊をよそに、藩祖謙信以来の家柄を誇り、格式にこだわる家臣の多くは、鷹山の進めようとする改革にことごとく反発する。 危機意識の薄さは、「政治とカネ」をめぐる問題の解決に、今にいたって消極的な自民党と共通している。 その自民党が再生を懸けた内閣改造で、農水相として初入閣を果たした遠藤武彦氏は、山形県米沢市の出身だ。当然のことながら、尊敬する人物は鷹山である。 「国家は先祖より子孫に伝へ候国家にして、我私すべきものには之無く候」。 自身のホームページ「エンタケネット」には、鷹山が後継の治広(はるひろ)に残した「伝国の辞」を掲げ、政治信条をこう語る。国会議員たるものは「国家国民への奉仕者」であり、国民の「生涯補佐役」である、と。 鷹山は、倹約令を発令するにあたって、自ら一汁一菜に甘んじて範を示した。 遠藤氏の場合は、その言やよし、だが行動が伴わない。自らが組合長を務めた農業共済組合が、国の補助金を不正に引き出し、指摘されても返さなかった。 「着服はない」との釈明は通らない。 農水相のポストにあった8日間で、手がけた仕事といえば、農政のでたらめぶりを天下にさらけ出しただけ。鷹山も泉下であきれかえっているだろう。 これは今日の『産経抄』である。 ●文部科学省は4日、今年度内にも改定を予定している学習指導要領で、中学校の保健体育の授業の中で柔道や相撲、剣道などの武道を男女とも必修とする方針を固めた。 体力づくりに加え、子供たちに礼儀作法を身につけさせる狙いもある。 柔道や剣道などは以前は「格技」とされ、「主に男子に履修させる」と定められていた。 1989年改定の学習指導要領で「武道」になってからは、男女とも自由に選択できるようになり、1年生は武道かダンスから一つ、2、3年生では武道、ダンス、球技の中から二つを選ぶことになっている。 しかし、最近は授業にヒップホップダンスなどを取り入れる学校が増えたことなどから、男女とも、武道の人気が低くなっているという指摘も出ていた。 文科省は、昨年12月に改正された教育基本法で、教育の目標に「伝統と文化の尊重」が掲げられたことから、「武道は日本の伝統や文化を知るために役立つ」と判断。 相手を思いやる気持ちや規範意識の育成にもつながるとして、1、2年生の段階で必修にすることになった。 新指導要領は早ければ2011年度から実施される予定であるとう。 ●大本営参謀から大手商社会長、中曽根康弘元首相のブレーンとして行政改革にもらつ腕を振るうなど、戦後の政財界で隠然たる影響力を発揮した元伊藤忠商事会長の瀬島龍三(せじま・りゅうぞう)氏が四日午前零時五十五分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。 九十五歳。富山県小矢部市出身。葬儀・告別式は近親者で執り行う。喪主は長女繁代(しげよ)さん。伊藤忠商事と亜細亜大学が合同葬を開くが、日程などは未定。 富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て太平洋戦争時には大本営参謀として作戦立案に参画、終戦直前に関東軍参謀(陸軍中佐)となった。 終戦後はソ連軍の捕虜となり、シベリアに連行され一九五六年に帰国するまで約十一年間、抑留生活を送った。東京裁判にはソ連側証人として出廷した。 五八年、当時は繊維商社だった伊藤忠商事に入社し航空機商戦などを担当。 約四年で取締役に就任し、石油部門への進出や、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携を仲介するなど、伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。 陸軍参謀本部の組織をモデルに直属の部下を率いたことから「瀬島機関」とも呼ばれた。副社長、副会長を経て七八年には会長に就任、八七年から二〇〇〇年まで特別顧問を務めた。 一九八一年に当時の中曽根行政管理庁長官の要請で第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就任、伊藤忠の会長を退いた。 行革の黒子役として電電公社や国鉄の民営化に尽力、中曽根氏の首相就任後も、ブレーンとして活躍。首相が電撃的に韓国を訪問した際には「密使」として活躍した。 日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭、亜細亜大理事長なども務めた。 シベリア抑留から一流ビジネスマンに転身、政治の世界でも才能を発揮した激動の人生は、山崎豊子さんの小説「不毛地帯」のモデルになったとされる。 伝説の男が世を去った・・・!!!!。 |
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