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| 廃帝溥儀東京裁判の立役者 証言のうそ自伝で告白 (12月17日)(日) ロサンゼルス発 米フロリダ州で13日に執行された薬物注射による死刑執行で、死刑囚が通常の倍以上の34分にわたって苦しんだ可能性があることから、同州は15日、死刑の一時停止に踏み切った、という。 カリフォルニア州も同日、死刑執行の一時停止を決めており、米国の死刑制度をめぐる論争に影響を与える可能性がある。 AP通信などによると、フロリダ州当局は13日、男性死刑囚の刑を執行した際、1回目の注射が効かず、異例の2回目の注射を実施せざるをえなかった。 通常は3〜5分で意識を失い、15分以内で死亡するという。 専門家は針が血管を貫通してしまったためと指摘している。 これを受け、同州のブッシュ知事は執行方法を再検討する調査委員会を設置する行政命令を出した。 カリフォルニア州では、1981年に起きた女子高校生に対する暴行殺人事件の死刑囚が「現在同州で行われている薬物注射による死刑は、残虐な刑罰を禁じた憲法に違反する」として裁判を起こしていた。 同州サンノゼの裁判所は15日の判決で、薬物注射による死刑そのものが残虐とはしなかったものの、執行方法に問題があると指摘した。 両州とも、現在の死刑執行が憲法違反にあたるほど残虐といえるのか、さらに調査を続けるとしている。 全米37州が薬物注射による死刑を行っているが、両州の動きと並行して、ニュージャージー州など死刑の一時停止に踏み切る州も増えている。 暗い曇り 7−11度C 8時 案件があって吉中氏が来訪懇談(自宅) 10時 田原氏 木村氏と要談(区内) 13時 クレベール協会の忘年会に出る(江東区亀戸) 夜は身辺整理。 黄文雄「大東亜戦争肯定論」を読んだ。 ●昭和21年5月に発足した第1次吉田内閣で、文相に就いたのは田中耕太郎だった。戦前から剛直な自由主義者で知られた法律学者でのちに最高裁長官になった。 8カ月後には吉田首相と対立して内閣を去るが、その間心を砕いたのが教育勅語に代わる教育基本法の制定だった。 主権在民となれば、勅語をそのまま教育の柱とするのは難しい。 しかしその精神を基本法として引き継ぐべきだというのが田中らの考えだった。 「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…」といった日本の伝統的な道徳心などである。 だが、教育勅語を否定する連合国軍総司令部の影響下にできた基本法はそうした人々の期待を裏切るものだった。 道徳心ばかりでなく、日本の伝統や故郷、愛国心といった教えるべきものが抜け落ちた。 どこの国の法律なのか分からないものとなったのだ。 その基本法の改正論議が今の国会で行われているとき、テレビでの「識者」の発言に驚きあきれた。 「いじめによる自殺など大変な問題があるのに、基本法の改正などやってるヒマはないはずだ」と。 まったくアベコベである。教育の荒廃がひどいからこそ改正しなければならなかったのだ。 無国籍化した基本法のもと、学校でも家でも受験に必要以上の国の歴史を教えない。 わが町の歴史も親孝行も兄弟愛もパスだ。国や故郷、そして先祖たちへの愛着を感じなくなった子供たちの心が根無し草状態となり、荒(すさ)んでいくとしても不思議ではない。 教育基本法はその制定より後に生まれた首相により、ようやく改正された。 「国を愛する態度を養う」などの文言も入った。改正推進派にはまだ不満はある。 しかし、ひとりでも多く戦後教育の問題点に気づいてくれれば、目的の大半は果たされたと言ってもいいだろう。と書いているのは「産経抄」である。 ●二〇〇五年度にうつ病などの精神性疾患で休職した公立小中高の教職員の数は前年度比六百十九人増え、過去最多の四千百七十八人に上ったことが十五日、文部科学省の調査で分かった。 十年間で約三倍に急増しており、文科省は「多忙や保護者、同僚との人間関係など、職場の環境が年々厳しくなっていることが背景と考えられる」としている。 同省は今後、悩みを相談しやすい学校環境づくりや、専門医らによるカウンセリング態勢の強化などの対策を促す方針である。 調査結果によると、病気による休職者は前年比七百九人増の七千十七人。 このうち精神性疾患による休職者は十三年連続増で、前年度より17%増えた。病気休職者全体に対する割合も、一九九六年度の37%から60%に増大した。 体罰やわいせつ行為、交通事故などで懲戒処分を受けた教職員は千二百五十五人で、前年度から二十九人増加。このうち懲戒免職は百五十六人(前年度比九人減)、停職は百九十人(同十人増)だった。 懲戒に訓告や諭旨免職を含めた処分者総数は四千八十六人(同三百八十五人増)。 処分全体の内訳は「交通事故」が二千四百六人と最も多く、このうち飲酒運転は百二十五人。「体罰」は四百四十七人、「わいせつ行為」は百四十二人だった。 国旗掲揚・国歌斉唱反対に絡んで処分があったのは東京都と広島県、広島市だけで、計六十七人。前年度(百三十五人)からはほぼ半減した。 また、教職員にふさわしくないとして分限免職になったのは十七人(前年度二十五人)で、うち指導力不足と判断された教員は四人(同十一人)だった。 ●殺人が続いている。イラクやイスラエルやレバノンで、テレビで毎日殺人を大々的にドラマのように報道しているから麻痺している。 毎日新聞に寄れば、16日午前8時ごろ、東京都新宿区西新宿7の路上で、「ゴミ袋に入った死体のようなものがある」と近くに勤める男性(47)から110番があった。 警察官が調べたところ、男性の遺体の胴体部分で、頭部や腕、下半身が切断されていた。警視庁捜査1課と新宿署は死体遺棄事件として捜査を始めた。 調べでは、遺体は2枚重ねにした東京都指定のゴミ袋(90リットル)の中に入れられていた。 全裸で、左手のひじから先と右手首、へそ下約5センチから下の下半身がのこぎりのようなもので切断され、胴体部分だけだった。 若い成人男性とみられ、目立った傷はなかった。 ゴミ袋は口が開いたままで、道路の縁石に接する場所に放置されていた。 現場はJR新宿駅の北約400メートルの線路沿いの、飲食店や会社事務所が入ったビルが立ち並ぶ一角。線路を挟んで反対側には繁華街・歌舞伎町が広がっている。 平日の朝や夕方は通勤のサラリーマンや学生が通るが、夜間や週末は人通りが少ないという。 現場近くのビル管理会社の男性社員(47)は、出勤途中に路上で遺体を目撃した。 この男性は「白っぽいビニール袋の口が開いていて、首のない人間の上半身が見えた。 皮膚は黒ずんでいて、とても正視できる状態ではなかった。 周囲には大勢の警察官がいて物々しい雰囲気だった」と話した。 また、現場近くを通りがかった運送会社の男性社員(25)は、「この辺りは歌舞伎町にも近いので、普段からホームレスが路上で寝ていたり、酔っぱらいが倒れていたりすることも多い。 でも、遺体が捨てられたというのは初めてのことで、ぞっとした」と話していた。 ●映画「ラストエンペラー」で知られる中国清朝の最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の自伝「我的前半生(わが半生)」が、大幅に加筆した完全版として来年1月に出版されることになった。 極東国際軍事裁判(東京裁判)での自らの偽証を明確に謝罪し、日本軍と満州国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたと後に反省したことなど、これまでの1964年版では削除・修正されていた部分が盛り込まれ、自己批判色の強い内容となっている。 溥儀は遼寧省撫順にある戦犯管理所に収容中の57年から自らの罪を語る形で「わが罪悪の半生」の執筆を開始。「わが半生」はこれをもとに、中国当局や専門家が内容を削除・修正し、64年に出版された。 すでに187万部近くに上り、日本語訳も出ている。今回出版されるのは、当時削除された16万字近い内容を加えるなどしたものだ。 東京裁判では、溥儀が日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」の執政に就任したことについて、日本人戦犯の弁護側が「自発的だったのではないか」と主張し、その証拠として溥儀が南次郎陸相(当時)にあてた「宣統帝親書」を示した。 裁判に証人として出廷した溥儀はこれを「偽造だ」と否定した。 完全版では、うそをついたために日本の行為の徹底的な解明を妨げたと認めて「私の心は今、彼(キーナン検事)に対するおわびの気持ちでいっぱいだ」と明確に謝罪している。 64年版では「証言を思い出すと非常に遺憾」となっていた。 また45年のソ連軍進攻の際、日本軍への支援を満州国閣僚らに命じたことについて「すべてを関東軍と吉岡のせいであるかのようにしたが、事実はすべて私が自発的に行ったことだった。 法令でも命令でも私が自発的にやらなければ、考えられないものだ」と告白している。中国政府による戦後の尋問でも、当初は、「(中国)政府をだました」という。 64年版でも満州国「皇室御用掛」だった吉岡への責任転嫁について触れていたが、完全版は命令に対する自らの関与を直接認め、強く反省する形になっている。 中国紙の報道によると、出版元である北京の群衆出版社は資料整理をしていた04年、64年版の削除・修正前の原稿を発見。 「(削除や修正は)過去の様々な理由によるものだが、今、その内容は溥儀の真実の生活を理解し、歴史を認識するうえで研究価値が高い」と判断し、出版に踏み切ったとしている。 愛新覚羅溥儀は、1908年に2歳で清朝第12代の最後の皇帝「宣統帝」として即位したが、辛亥革命により12年に退位した。 31年の満州事変勃発(ぼっぱつ)を受け、32年に建国を宣言した「満州国」の執政に。 34年には同国の皇帝になる。日本の敗戦とともに満州国は崩壊し、旧ソ連軍によって抑留された。 46年には東京裁判に出廷。50年、中国の撫順戦犯管理所に移送され、59年に特赦で釈放された。67年、病没した。 |
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