007まがいの暗殺ロシア人 謎のすべては闇に埋もれ (11月28日)(火)
ホテルのメードに変装したソ連の女スパイが、靴の先から飛び出すナイフで、英国情報部員、ジェームズ・ボンドに襲いかかる。映画の007シリーズ2作目『ロシアより愛をこめて』の一場面だ。
イアン・フレミングの原作では、実はナイフの刃には日本のフグの毒が塗られており、映画とは違って、ボンドは意識不明に陥る。フグ毒は傷口から入っても有毒なのか。
産経新聞の長辻象平記者はコラム「釣然草」で、「答えはイエスのようである」と書いていた。
ロイター通信モスクワ支局長の経験もあるフレミングは、どこで情報を仕入れたのだろう。
確かに毒物を使った暗殺は、旧ソ連国家保安委員会(KGB)のお家芸だった。
関与が疑われているのは、たとえば1978年にロンドンのバス停で、ブルガリアの亡命作家マルコフが、傘に刺されて死亡した事件だ。
傘の先端には、ヒマの種子から抽出した猛毒のリシンが仕込まれていた。
2004年9月、ウクライナ大統領選のさなかには、野党候補ユシチェンコ元首相の顔が腫れ上がる毒殺未遂事件があった。このとき使われたのはダイオキシンだ。
ロンドン市内で変死したロシアの元情報将校、リトビネンコ氏の尿からは、放射性物質「ポロニウム210」が検出され、英メディアは色めき立っている。
リトビネンコ氏は、プーチン政権批判を繰り返して、英国に亡命中だっただけに、疑いの目はロシア政府に向けられている。KGBのスパイの経歴をもつプーチン大統領はもちろん全面否定だ。
冷戦の終焉(しゅうえん)とソ連の崩壊によって、スパイの活躍の場が失われる、との見方もあったが、とんでもない。
「殺しのライセンス」を持つスパイの暗躍はいまなお猖獗(しょうけつ)をきわめている。
以上は今日の「産経抄」からである。
雨 10-14度C 8時30分 トーヨーで打ち合わせ 8時50分 区へ 打ち合わせ
11時 退庁 12時 ディスカバリー・ナショナル・オークションへ行く(築地)
打ち合わせ 依頼 14時 終了
16時 案件があって吉中氏と要談(区内) 18時 江戸川区江戸川区福祉ボランティ団体協議会役員会 18時30分 運営委員会 18時45分 佐々木夫人のお祝い会懇談会 松崎氏 深江氏 中村氏らが出席した(区内・壽賀多)
●多田区長が「市川市の里見公園の『紫煙草舎』を江戸川区に取り戻せないですかね」と私に言った。
昨夜のことである。 北原白秋の紫煙草舎は北小岩から、かって市川市の里見公園に移築されたものである。
「『江東歳時記』を歩く」という本に次のように書かれている。
「江戸川の白秋碑」 紫烟草舎春を惜しまむすべもなし江戸川区の北の外れの北小岩8丁目に八幡神社がある。
祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、相殿(あいどの)に倉稲魂尊(くらいねたまのみこと)をまつっている。
創建は不詳だが、元禄8年(1695年)の記録には神社の名がみられる。
誉田別尊(ほんだわけのみこと)は応神天皇のこと。仁徳天皇の父。
応神天皇の母は気長足姫尊(おきながたらしひめ)、神功皇后である。
倉稲魂尊(くらいねたまのみこと)は素佐之男尊(すさのおのみこと)と稲田姫(いなだひめ)との間に生まれた子。
「『江東歳時記』を書くなら、ここをみてくれなくては……」と案内されて石田波郷が八幡神社を訪れたのは、昭和32年の5月5日であった。
人妻との恋愛にやぶれた北原白秋があたらしい生活を志して江口章子という女性と結婚、葛飾郡小岩村小岩田の三谷という部落(現在の江戸川区小岩町8の263)に新居をもったのは、大正5年7月のことである。
ある夕方、江戸川べりを歩いていた白秋が、その家から新妻の夕餉の支度をしている紫の煙をみて、紫烟草舎と名づけたということである。
大正2年5月、白秋は松下俊子と結婚するが、1年余りで離婚。大正5年に江口章子(あやこ)と真間にある亀井坊(現亀井院)の庫裏の6畳間を借りて住む。
7月、市川真間より小岩村大字三谷(現在の北小岩8丁目)に移り住む。白秋32歳の夏である。
以下は波郷の文章である。
「『江東歳時記』を書くなら、ここをみてくれなくては……」という江戸川区民生委員の古い俳人田沢匏生さんに案内されて、白秋の旧居と石碑をみたのは5月5日、子供の日であった。
快晴にめぐまれて、対岸に国府台の見える江戸川べりの堤から、川幅が痩せてできた空き地で、キャッチボールをしている少年のすがたがうらやましいように撥剌(はつらつ)としている。
東京がわは鯉幟の林。あいにく風がないので、大方は垂れて、時を得ぬといったさまだ。
匏生さんは、夢中で古い時代をかたっていて、つい、白秋旧居を通りすぎてしまう。
それくらい平凡なただの住居になってしまっているのだ。引き返して、堤の上から見おろす。
いまは湯浅伝之丞氏の工場とか。屋根もプラスチックの波板のつぎはぎだらけ。
そこから堤をおりて西へ向かうこと、約200メートル。畑や林が残っている舗道。
自動車がすくないのはうそみたいだ。三谷八幡神社があるのは、そのみちからちょっとはいったところだ。
境内はせまいが、埃をあげるみちも遠く青々とした畑がひかえているので、ひろびろと感じさせる。借景とでもいうのであろうか。
白秋の旧居は土手の上にあった。しかし、昭和40年の江戸川堤防の改修工事で取り壊され、現在は、市川国府台里見公園の中に復元保存されている。
碑は「いつしかに夏のあはれとなりにけり乾草小屋の桃いろの月」という。
毎年4月23日、揃いの白秋ゆかたをつけた近所の婦人連が、匏生さん作の小岩音頭をここで踊るよし。
土地にはたった1年しか住まなかった白秋を慕うのも、東京の片隅に、昔ながらの田圃を守っている土地の人たちの素朴な愛情であろう。
『江東歳時記』(江戸川の白秋碑)より。
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