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人溢れ眩い光X'MAS 和服の師匠芸道語りぬ (12月25日)(土)

 君と見て一期の別れする時も ダリヤは紅しダリアは紅し
 
 かくまでも黒くかなしき色あるや わが思ふひとの春のまなざし
 
 編笠をすこしかたむけよ君はなほ 紅き花に見入るなりけり
 
 明治44年6月、詩集「思い出」の刊行で、青年 北原白秋は一躍有名歌人になった。
 牛込から原宿にに転居した白秋は、隣家の人妻、松下俊子と知り合い垣根越しに親しく会話するうちに、お互いに恋するようになった。
 俊子は上背のある魅惑的な大変な美人だったそうで、白秋よりも3歳年下で、まだ22歳の若さであった。
 
 このふたりの行状は、やがて世間に知られるようになって、夫の松下長平に姦通罪容疑で告発される。
 現代と違って、当時は不倫が罪になっていた時代である。マスコミ各紙は、ここぞとばかりに新進歌人のスキャンダルを書きたてた。
 白秋は市谷刑務所に未決囚として収監されて、人生の地獄と向かい合った。
 
 かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち 馬車の軋みてゆく小石道
 
 しみじみと涙して入る君と我 監獄(ひとや)の庭の瓜紅(つまぐれ)の花
 
 2週間繋がれた監獄を仮釈放されて白秋は
 
 監獄(ひとや)いでてじっと震えて噛む林檎 林檎さくさく身に染みわたる
 
 白秋は遅れて出てきた俊子と正式に結婚して、心機一転、三浦三崎に移り住んだ。
 しかし俊子は結核にかかって仕舞ったので、八丈島の父島に移ったが、島民に疎まれて東京に舞い戻った。
 夫婦の生活は、貧乏所帯で困窮の極に達し、ヒステリーからとうとうふたりは分かれることになったのである。
 絵に描いたような悲恋物語となった。
 
 そんな時に現れたのが、第二の妻江口章子であった。白秋よりも三歳年上で、大分県生まれで弁護士と結婚したが、夫の放蕩から27歳で離婚していた。
 白秋と章子は、市川市に住んだがその後、江戸川区北小岩のタバコ屋さんの離れを借りて移り住んだ。
 これが現在、市川の里見公園に移築されている「紫烟草舎」である。
 当時、江戸川区が保存の機会があったのにこの建物を保存せずに放置して市川市内に移築されたのは、中里区長の判断ミスで、今思うと、返す返すも残念なことだった。
 
 このふたりも数年後には、悲惨な流血事件を起こして離別することになる。
 白秋は、大分高校で章子と同窓だった、佐藤菊子と結婚して一男一女をもうけて、漸く家庭的な安穏の機会を得た。
 章子の方は、肺結核と精神分裂症と中風に悩まされて、二回結婚したが悲惨な人生を送った。最後は狂死だった。
 章子にとっては、白秋と暮らした4年間だけが、最も充実した期間だったようで
 
 昼ながらかすかに光る蛍一つ 孟宗の藪を出でて消えたり(章子 )
 
 白秋と別れたかっての最愛の最初の美人妻、俊子のほうも仕事や住まいを転々としながら昭和29年、国立相模病院で誰一人看取る者も無く、寂しく亡くなっている。
 白秋とは、昭和15年ごろにたった一度、偶然中央線の電車で、黒めがねを掛けた白秋を見かけたという。
 糖尿病で失明状態だった白秋を見て,俊子は
 
 くろきまゆかくるるばかり大きなる 眼鏡かけいし人に逢いつる(俊子)
 
 なんとも、人と人との関わりあいは、厳しくもかなしいものである。
 
 歌人北原白秋は、その後国民的は寵児として時代を生きたけれども、
 晩年は糖尿病と内部疾患で体調を壊して、昭和17年、57歳で波乱と激流の人生を終えている。
 
 晴れ 9時 トーヨー 案件があって要談 外出 11時 トーヨーの4階の物置 4階の事務室などの整理整頓、掃除をする。
 14時ごろに終わった。16時40分過ぎには自宅を出る 東京駅北側道路のイルミネーションが点いて綺麗である。
 帝国ホテルのロビーでは、クリスマスソングの演奏が行なわれていて、雰囲気を盛り上げている。
 18時から畑道代師匠を囲んで、谷本、枝木、佐々木氏と小生で忘年会を開き、この一年を回顧して和やかに懇談した(帝国ホテル・伊勢長)。
 この1年の活動、近況、来年の抱負、芸道、信念などを語ってもらった。
 20時45分近くに閉会解散したが、イルミネーションの通りまで歩いた。
 しかし正21時には消灯、暗闇になったので、タクシーで帰宅。

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