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| 年忘れ圓蔵一門集い来て 特製オムレツ東京會舘 (12月17日)(金) 今年の夏は猛暑で、平均年よりも約1度高温であり、平成2年(1990年)についで2番目に高い気温を記録したと言う。 新潟の中越地震も「余震」の山場を超えたらしい。雪の時期になったが、地震の後始末はいまだ済んでいない。 心配事は残っているけれども、このまま年を越しそうである。 永代信用組合の組合長山屋幸雄さんが、東京地裁で懲役5年の求刑を受けた。 不良債権を作ったと言う「背任横領罪」で、永代信用組合に数十億円の損害を与えたと言うことである。 10年以上前の、「バブル崩壊時代」の責任を負わされているのだが、あのように土地の価格が暴落したのでは、経営上やむを得ない部分も多かったと思う。 崩壊から10年経って、責任追及をされて懲役に行くのはいかがであろうか? 私も昭和56年5月から平成7年11月までの14年6カ月間、東京都内の信用組合の経営に参画したが、最後の2−3年は事態が急変して悪夢のようになった。 今はその信用組合は跡陰もないし、合併した方の信用組合も同様に、地球上に存在もしていない。 夢も希望も何もない状態であるが、人々はそうした夢の跡すら忘れ去っている。 すべては夢のまた夢でなのである。 私の人生は、凡そ次のように分けられている。昭和30年(1955年)に父親が亡くなって、19歳で洋画家としての修行生活に入った。このあとフランスへ行った。 昭和38年(1963年)に帰国してからは、洋画では生活できないと分かったから、独立した事業家としての修行時代に入った。 45年(70年)には東京銀座に事務所を構えた。昭和56年(81年)には東京墨田区にある信用組合の経営者になった。 しかし平成7年(95年)経営困難で辞任した。このころある個人的事件にかかって多額の被害にあった。この後遺症はかなり続いていた 平成12年(2000年)2月江戸川区監査委員に就任した。 つまり、洋画家時代(8年間)、事業家時代(18年間)、信用組合理事長時代(14年間)、区監査委員時代(現在)で45年間を過ごしている。 このうち、洋画家は自分から成りたくて進んで志したものだが、事業会社の創立と経営は生活上の便宜的ものであった。 この会社は現在も40数年間続けられていて、黒字経営である。 信用組合と、地方自治体の監査委員は自分から志してなったものではない。 私はこのほかに、昭和50年代から物書き、執筆者、ボランティアとしての立場がある。 執筆者としては20数冊の単行本がある。ボランティアとしては、福祉法人「つばき土の会」には20年前から関係している。平成7年からは、福祉法人としての理事長である。 昭和63年からは江戸川区文化会会長、江戸川区福祉ボランティア団体協議会会長、平成6年からは、江戸川区美術会会長である。 そのほか第九を歌う会会長などいろいろな数多くのボランティアで毎日を過ごすことになっている。 毎日、異なった種類の仕事をしているが、くたびれる事も多い。 少しは減らしたほうが良いかなと思う。山屋幸雄さんとは、信用組合時代に仲間であったが、これから刑務所に服役するのはさぞかし辛いだろうなと思うのである。 台湾の李登輝前総統の来日ビザが発給される。李登輝氏は総統を辞めてから4年半経っていて、いくらその発言の影響力が大きいと言っても、彼は私人の一人である。 「日中共同宣言を破壊する者」「台湾独立を図る元凶」などと中国政府は非難しているが、ビザ発給の問題は、日本国内問題であって、中国政府からとやかく言われる筋合いはない。 李登輝氏には数次ビザを当然発給して良いと思う。 晴れ 冷たい風が吹いている 9時案件があって要談(区内) 11時 案件があって要談(船堀・今井治療室) 13時 案件があって要談(トーヨー) 15時 案件があって要談(トーヨー) 18時 橘家円蔵一門の忘年会(東京會舘) 来賓のいない内輪だけの年忘れ会で、円蔵師匠はいつも私を呼んでくれるので出かける。 円蔵師匠、甲斐社長の挨拶、東京会館常務の紅谷さんが乾杯して始まった。 有名な「料理の鉄人」紅谷さんが出席して見ているので、味は毎度保障つきで、オードブル、オムレツ、コールドビーフ、鯛のムニエルなど絶品が並んでいた。 左楽、さん枝、二三蔵、竹蔵、仲蔵、富蔵、亀蔵、鏡さんなどの一門の弟子達と、昔からの内輪の後援者だけの会合で、和やかなうちに20時過ぎに終わった。 |
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